慎重に生きている自分が貶されてきた過去について

  • 2018.05.04 Friday
  • 11:45

 少し昔話をしたいと思う。私がまだ小学校の頃の話だ。

 

 実を言うと、小学校の頃を省みるとあまりいい思い出が出てこない。というのも、小学校の頃、教師からも、クラスメイトからも、様々な相手から事あるごとに貶されていたからだ。

 

 当時、私は何をやるにもノロマだった。

 給食を食べるのが遅い。体育の前に体操服に着替えるのが遅い。走るのが遅い。ものを覚えるのが遅い。物事を決断するのが遅い。良く言えば「思慮深く」、悪く言えば「優柔不断」であり、何をやるにも慎重で、下準備をしっかりとやらないと不安で行動に起こせない臆病者でもあった。

 

 そしてそれは大人になった今も、あまり変わっていない。

 

 大人になるにつれて、人生の様々な分岐点において選択する(選択しなければならない)場面が圧倒的に増えたせいか、子供の頃ほど思い悩むことはなくなった。悩んでいる暇などない、という考え方へとシフトするようになったからだ。

 

 だが、根っこの部分は変わっていないと思っている。

 つまり、決断が遅く、一つ一つの行動も、周囲の人間より時間がかかるのが常だ。私の心の中には、常にこの上ないほどの慎重さと臆病さが入り乱れている。私は慎重かつ臆病な人間だ。

 

 

■「慎重である事は悪いことではない」と自分に言い聞かせていた過去

 

 どのような状況に置いても、慎重さを捨てることはない。それは私自身のアイデンティティと言える。

 

 家を出る時には、窓に鍵をかけたかどうかを何度も自問自答する。ドアに鍵をかけた後に本当に鍵が掛ったかどうか、ノブをもう一回引いて確認しなければ気が済まない。

 

 車を運転すれば、常にどこかから人が飛び出して来るのではないか?と周囲に視線を配り続ける。スピードを出しすぎれば、エンジンが壊れてしまうのではないか、と不安になり、荒れ道に入ればタイヤのボルトが外れてしまわないかという恐怖心がヒョッコリ顔を出す。

 

 買い物をするときも慎重になる。特に大物の家具や家電製品などは、とりわけ慎重に慎重を重ねる。まず寸法と重量をメーカーのホームページで調べて、室内の空間に収まるかどうかを計算しなければ買えない。大体ではダメだ。

 

 取扱説明書を事前にメーカーサイトからダウンロードし熟読しなければ気が済まない。そして実際にその製品が私の家に来たとき、どんな風にその製品と向き合って、付き合って、生活していくのか、それをシミュレーションする。

 

 家具は私にとって生命を持たないパートナーだ。私の日常生活において、とても身近な存在となる、新しい家族の一員のような存在になるはずなので、生半可な理解では不十分だ。事前によく相手の事を知っておかなければならない。その為に、取扱説明書や仕様書を確認する作業は必要不可欠である。

 

 

 慎重さは、私の学生時代において大きな足枷となっていた。

 多くの学生は、学校という社会の中で、周りの学生と同じように行動出来なければ落第者と見なされるものだ。

 

 私が十分に時間を掛けて、慎重に事を運びたいと思っても、周囲の学生や教師といった「環境」がそれを許さない。

 「そこまでしなくても良い」

 「そんなに深く考えなくても良い」

 と言われ続けて、最初はこちらの不安を気遣っていってくれる声も、次第にのろまな相手を急かすような、鬱陶しがる声にしか聞こえなくなっていた。

 

 私は自分の慎重さが嫌いになった。

 

 だからわざと慎重に振る舞わないようにしようと試みた時期もあった。あえて深く考えず、とにかく先に行動をしてみるのだ。

 すると、どうなったか。

 結果はもっと悲惨になった。具体的には、失敗が増えるようになった。

 

 テストで名前を書き忘れることもあった。体育の授業では、元々運動神経が良くないのに、向こう見ずに突っ込んで危うく首の骨を痛め損ねた事もある(折れなかっただけマシだ)。

 買い物に出れば財布を忘れ、レジまで商品を持っていったところでそれに気づき、店員に頭を下げて商品を戻してもらう。そんな光景を周りから笑われて恥を掻いた時もあった。

 

 その多くは些細な失敗でしかなかったが、些細な失敗でも積み重なるにつれて、それは次第に大きなストレスとなって私にのし掛かってきた。

 

 学生時代の私はそんな感じだった。

 特に小学校の頃は失敗した思い出しか残っていない、と言っても良いくらい、苦い思い出ばかりが蘇ってくる。

 

 そしていつの日か、私は一つの結論に到達した。

 「これは自分の生き方ではない」と。

 

 私の「慎重さ」が形成されたのは何歳の頃だったのだろうか?それは考えても分からない。物心ついた頃から、慎重に生きるという生き方は変わっていない。だから、これが私の生き方なのだと思うようにするしかなかった。

 周りからノロマと馬鹿にされようが、貶されようが、無理矢理生き方を変えようとすると余計に悪くなるのだから仕方ない。

 

 私は慎重な人間である。そして、それは悪いことではない。そう自分に言い聞かせていた。

 

 

■「慎重」だからといって、挑戦しない人間にはなりたくない

 

 転機が訪れたのは高校生の時だった。

 

 中学校の頃、進路を選ぶ際に、私は自分が今後進むべき道を「慎重に」考えていた。どんなに馬鹿にされようが、私の慎重さは健在だった。

 

 好きな数学に没頭できる学科が良い。嫌いな文系の科目が少ないところに行きたい。

 そんな漠然とした思いと同時に、当時はコンピュータが爆発的に売れる一歩手前の状況だったのもあり、これからはコンピュータが使えるようにならなければならない、という思いがあり、電気系・情報系の学科を選択することとした。

 

 そして、これが見事に私にヒットしてくれた。私は没頭した。電気の世界―元言い、理工系の世界に。

 それまで、成績は平均よりちょっと下の辺りでそれ程良く無かったし、勉強が好きというわけでもなかった。だが、好きな勉強であれば話しは別だ。私はとにかく夢中になって、理工系の世界に入り込んでいた。

 

 するとどうだろうか?相乗効果とでも言うのか、大して好きでもないーむしろ嫌いな文系の科目の成績もみるみるうちに上がっていった。嫌々仕方なく勉強していたのは確かだが、理工系の分野に没頭することで私の精神は明らかにプラスの方向に向いていたのだろう。その方向が苦手な科目も押し上げてくれていたのかもしれない。

 

 成績はみるみるうちに上昇し、クラストップどころか学年トップになった事もあった。だがそれを嬉しいと思った事は無い。

 なぜなら私の中には、もっともっとこの道を究めたい、という強い思いがあったからだ。成績や順位などどうでも良い。とにかく自分が夢中になれるこの分野を徹底的に極めたい、その一心だった。

 

 クラブ活動でも私は理工系の分野を選んだ。アイディアロボットを製作するクラブだったが、そこでも私は没頭していた。ものづくりの楽しさを噛み締め、大学受験を控えた高校三年になってもやめることはなく、最終的に国際大会にも出場し、各国の学生達とロボット競技で競い合い入賞した。

 

 とにかく乗りに乗っていた時期だったのだ。

 

 ではこの当時、私の慎重さはどうなっていただろうか。

 成績優秀という波に乗っかって調子に乗っていたのか?国際大会に出場した自分の自信を過信していたか?

 

 そんな事は無かった。むしろその逆だった。

 理系の分野において、その高みを見据えれば見据えるほど、私は慎重になっていった。いや、慎重にならざるを得なかったのだ。

 

 アイディアロボットを製作するときも、とりあえず動くロボットが作れれば良いと言うわけではもちろん無い。安定した動作が可能なもの、しっかりとした作りでちょっとやそっとの衝撃では壊れないもの、それを実現するために綿密な計算をしなければならなかった。

 

 また、とある計算競技大会に参加したこともあった。プログラム機能付きの関数電卓を使用して、計算のスピードを競う大会だったが、その時も私は慎重だった。

 関数電卓のバッテリを確認するのは勿論の事、キーを押すときの指の角度や、爪の長さまで調整し、鉛筆の本数は、途中で何本か芯が折れた場合に備えた予備をどのくらい用意するかをシミュレーションし、充分な本数を用意しておく。先端を削りすぎると、力を込めたときに折れやすくなるので、どのくらい削れば良いかも見極める。

 結果的にその大会で、私は優勝こそ逃したものの、トップと僅差の成績を収めることが出来た。

 

 目指すべき目標が高くなれば高くなるほど、挑戦すべき対象が強大であればあるほど、私は慎重になっていた。慎重にならなければ、目標を達成できないからだ。

 大きな目標の達成や、挑戦には、周到な準備が絶対不可欠である。その事を、私は強く実感していたのだ。

 

 

■慎重な生き方を馬鹿にしてきた奴らを見返してやりたいという意地

 

 何歳になっても、私が慎重さを捨てることは無いのだと思う。今のところは、そう思っている。

 無論、年老いて行くにつれて、徐々に何をやるにも面倒になって、ぐうたらな生活を送らないとも限らないが、身体に染みついた習慣を中々変える事が出来ないのと同じように、骨の髄まで染みついた「慎重さ」は、おそらくそう簡単に消えることはないだろう。

 

 かつて慎重であるが故に、色々馬鹿にされてきた過去があった。

 慎重であるが故に、ノロマになり鬱陶しがられてきた過去があった。

 

 もし私の慎重さが、当たり前に誰からも受け入れられてきたのなら、私はここまで「慎重さ」を大事にしなかったかもしれない。

 私は自分自身の事を穏やかな気性の持ち主と分析しているが、その実誰よりも負けず嫌いだとも思っている。馬鹿にされれば悔しいし、見返してやりたいと思う気持ちがある。

 

 自分に取って無関係なことや、自分に取って重要ではないことには、馬鹿にされても貶されても腹は立たないが、私のアイデンティティとも言うべき「慎重な生き方」を馬鹿にされたら、やはり黙っておめおめと引き下がりたくはない。

 

 少しばかり意地になっていた所もあるだろう。

 だが、それが良い結果に結びついたというのも事実である。

 

 慎重に生きている人間のことを、臆病だとか、二の足を踏んでいるとか、中々行動を起こさない、とか言って馬鹿にしてる奴らは、どいつもこいつもくたばってしまえば良いと思う。彼らは慎重な人間のことを大きく誤解している。

 

 慎重な人間の「慎重な行動」は、大きな目標にチャレンジするために、自分が進むべき道を厳しく精査して、方向性を見定め、どのように進むべきかを吟味しているのだ。目標が大きければ大きいほど、より厳しく、慎重に行動する必要がある事を彼らは知っている。

 

 世の中には、大成を成し遂げて、華やかな人生を送っている人間がいる。私達は、そういう人達が、大胆に人生を切り開いていると思いがちだが、実際はそうとは限らない。むしろ、小さな物事を、慎重に慎重を重ねて積み上げて、気の遠くなるほどの時間と努力を重ねた結果、掴んだ成果とも言える。

 

 慎重な人間を馬鹿にするのなら、まずは自らが大成を成し遂げてから言って欲しいものだ。そんな事が出来るか?いや、無理だ。出来るなら馬鹿にするはずがない。

 そんな馬鹿に耳を貸してやるのは時間の無駄だ。そんな言葉は気にせず、私は今日も、そしてこれからも「慎重」に生きていきたいと思う。

OK Music For Creatorsでアーティスト登録しております

  • 2018.03.25 Sunday
  • 05:47

最近は批判的な論調でばかり記事を書いていて、音楽関係の書き込みをするのは実に久し振りなRavusです。

 

お知らせです(今更な)。

 

昨年末頃からになりますが、「OK Music」というサイトの存在を知り、アーティスト登録しました。過去曲から徐々に楽曲を公開しております。

 

★OK Music For Creatorsアーティストページ★

http://creators.okmusic.jp/#!/user/142868

 

コメントやレビューが充実しているのと、スタンプやコメントファウンテン等、他の音楽配信サイトとは違う機能など、中々に楽しいサイトではあります。

サイトへの埋め込みが出来ないようなので、暫くはCREOFUGAと併用する形になりそうですが、どちらかというとこっちがメインになっていくかもしれません。
 

どうぞ宜しくお願い致します。

宝くじやパチンコなどには1円たりとも支払いたくない

  • 2018.03.21 Wednesday
  • 22:07

 先日胸くそ悪いテレビ番組をやっていた。

 

 こんな番組を見るつもりはなかったのだが、私が夕食を食べている間、家族がその番組に夢中になっていたので、消すわけにもいかず、極力画面を見ないようにしてテーブルの前の食事にがっついていた。

 

 しかし、音声だけはどうしても耳に入り込んでしまう。食事は私の大好きなカレーライスだったが、残念ながら聴覚を停止させるほどの味覚ではなかった。カレーライスのせいではない。聴覚を停止できる程カレーライスに夢中になれなかった、私の責任である。

 

 …。

 冗談はさておき、その時放送されていた番組の内容は、確かこんな感じだった。

 

 宝くじで今まで9000万円近く当選した事があるという夫婦が、宝くじにより所持金5万円を限られた期間内に10万円に増やすことが出来るかどうか?という内容のバラエティ番組だった。

 

 番組では、この夫婦が過去の宝くじの当選パターンを分析して、実際に宝くじを購入して当選する場面が何度も出てきていた。

 彼らが購入している宝くじは、自分で当選番号を予想して、その数字や順番がある程度当たっていればそれなりの金額がもらえる、というモノらしかった(宝くじには無知なので、大雑把な説明で申し訳ない)。

 この夫婦は、毎日何時間も時間を掛けて過去の宝くじの当選パターンを分析して、次にどんな数字を予想すれば当たるのか、という事を日常的に考えているようだった。

 

 結果的にこの夫婦は所持金を14万円近くまで増やすことに成功し、無事ノルマを達成し、出演者達からは大きな拍手と歓声が沸いていた。

 

 さて、ここまで読んでくれた方は既に気付いているであろう。

 こんな番組はただのヤラセである。

 

 

■確率をパターン化するという矛盾

 

 宝くじは、それがどんなものであれ、全ては確率論で成り立っている。宝くじで当たる期待値は1未満なので、普通は宝くじを売る側が儲かる仕組みになっている。

 当たり前だ。そうで無ければビジネスにならない。

 

 無論、確率論なので、時には高額当選者が現れ、売り手側にダメージを与える事もあるだろうが、それらを考慮した上で期待値が設定されているハズであり、だからこそ宝くじビジネスが成り立っている。

 

 従って、そもそも宝くじにパターンなど存在しない。

 

 存在しないパターンを分析して当てようというのだから、番組に出演していた夫婦は気が狂っているとしか思えない。ただこの夫婦も、ギャラをもらっているのだろうから、番組を盛上げる為に仕方なくそう言う体を演じているのだとすれば分からなくもない。

 しかし、もしこの夫婦が本気で「宝くじにパターンがある」と思っており、一日に何時間も時間を掛けて分析しているのだとすれば、真っ先に病院に行って精密検査を受けるべきだ。主に頭の。

 

 そして、彼らが宝くじを当てていたことに盛り上がっていた出演者達、彼らもまた出演料という立派な報酬を受け取るためにその場にいたのだろうから、仕方なく盛り上がっていたのであろう。だが、素で凄いと思って盛り上がっていたのであれば、やはり彼らも気が狂っているとしか思えない。

 

 そして、こんなくだらない番組を、多額の費用を掛けて制作し、全国に放送するテレビ局からマスメディアに至る関係者全員は万死に値する。

 

 おそらくこの番組を見た殆どの国民は、この番組をヤラセだと思っているだろうが、中には本当に宝くじにパターンがあり、パターンを見抜けば当たると思い込む国民も現れるかもしれない。

 こういうとんでもない誤解を国民に植え付けるような番組は即刻消えるべきだ。

 

 繰り返すが、宝くじにパターンは存在しない。

 

 過去の当選番号に何らかの規則性が見出されたとしても、それは偶然に過ぎず、過去から現在そして未来に至るまでの当選番号を論理づける根拠は存在しない。

 

 

■一攫千金が低確率で起きるからこその魅力

 

 私個人は今まで宝くじを買ったことがない。買いたいと思った事も無い。また、それ以外のギャンブルもやろうと思った事は無いし、やりたいとも思わない。私の親はパチンコが好きだが、なぜパチンコが好きなのか全くもって理解できない。

 

 宝くじに限らず、あらゆるギャンブルは我々が損をするように出来ている。そんな事は分かりきっているはずなのに、一部の人は取憑かれたようにギャンブルに夢中になる。

 そこに一体どんな魅力があるというのか?彼らは何に魅了されるのだろうか?

 

 それは「一攫千金」という夢である。

 

 ギャンブルは殆ど当たらない。だが、ごく希に大金が当たる事があるのもまた事実である。可能性は極めて低いが、たった1枚の紙幣が何億枚という紙幣に化ける可能性を秘めている。

 人々はそこに魅力を感じる。

 

 朝から晩まで、汗水垂らして必死で働いて手に入れた金額の何倍、いや何十倍、何百倍という額が一瞬で手に入る可能性があるのだから、魅力を感じないわけがない。

 「もしかしたら当たるかもしれない」という僅かな可能性に欠けて、必死で働いて手に入れたなけなしの紙幣を握りしめ、宝くじを買うのである。

 

 そして、殆どの人はハズレを引く。そして、投資した金を無駄にしてしまったことを後悔して、宝くじを買わなくなるなら、そこでやめることが出来る。

 だが、困ったことに殆どの人は、宝くじが「めったに当たらない」事を知っている。だから「次は当たるかもしれない」という欲望が顔を出す。すると、また宝くじを買ってしまう。そして、また圧倒的高確率でハズレを引く。

 

 現実的に考えれば、期待値が1よりもはるかに小さく、むしろ限りなくゼロに近いのが宝くじだ。それなのに、いや、だからこそその僅かな可能性に魅力を感じるのだから、一度宝くじに魅了された人は中々抜け出せなくなるのだろう。

 

 また、上手く魅力を感じさせるような金額が設定されており、人々が飛びつきやすい。投資金額は少なくても数百円という小銭で良いし、当選金額は何億円という金額だ。年収300万の人が40年会社で働くと、1.2億円を稼ぐことになるが、それを上回る当選金額を設定してくる。つまり当たれば一生働かなくても食っていけるという事だ。

 

 欲しいものが買えるどころの話しではない。豪邸を建て、高級車を乗り回し、海外旅行を楽しむ事だって出来る。金を持っているというのはとにかくアドバンテージになる。その夢を一瞬で叶えてくれる可能性を秘めているのだから、人はそこに魅力を感じる。

 

 無論、それらは全て単なる夢物語でしかない。

 

 

■身を破滅させる行為をなぜ大々的に放送するのか

 

 人の心は流されやすい。

 調子の良いときは、何をやっても上手くいく気分になり、逆に調子の悪いときは何をやっても上手くいかない気分になる。

 周囲の環境に左右されやすく、冷静な判断力を失いやすい。

 

 例えば身近な人が突然病気で亡くなったりすると、自分も病気になったりするのではないだろうか?と不安になったりする人がいる。地震で家をなくした経験のある人は、次に家を建てるときにやたらと耐震構造を気にする傾向にある。また地震が起きて家が倒壊するのではないかという不安に駆られる。

 

 逆に、身近な人が宝くじで高額当選すると、もしかしたら自分にも当たるのではないか?という予感がしてくる。

 

 どれも全く根拠のない予感である。

 

 人間はこうした誘惑に非常に弱い。それがネガティブなものであれば、人は一旦二の足を踏むが、ポジティブなものであれば向こう見ずに突っ込む可能性がある。

 

 ネガティブな不安要素であれば、それを排除するために一旦立ち止るとか、有事に備えるという行動に移すことが出来る。それは時に無駄になることもあるが、悪い事ではない。地震に備えて家を頑丈にしておく、というのは、いつ起きるか分からない地震に対する備えだ。いつ起きるか分からない事に備えることは決して無駄ではない。

 これらは人間のもつ防衛本能である。

 

 逆にポジティブな要素は攻撃本能とも言える。気分が乗っているときは、何をやっても上手くいく気がする、というのも同じ効果と言える。

 実際に気分が乗っている時の方が、仕事が上手くいく。だが、だからと言って自分の実力以上の力が出せるわけではない。ましてや、宝くじなどという確率で決まる出来事に変化が生じるわけがない。

 

 テレビで宝くじに当たった事を放送する事の効果。それは、人々に歪んだ認知を植え付ける事だ。それをバラエティにして親しみやすい調子で番組を進行する。そうして、普通に宝くじを買う場面を映像で見せ、宝くじに当たるという事、それで利益が生み出せたという事を見せつける。

 その映像に騙された人は、自分も当たるのではないか?という根拠のない思い込みを引き起こす。

 

 番組を主催した人間が何のためにこんな番組を制作し、国民達に見せつけたかは分からないが、彼らの行動は人々に誤解を植え付け、宝くじを買わせて人生を破滅させるトリガを引かせると言う事に繋がる。

 

 これは一種の悪質な洗脳である。

 

 

■身を破滅させる行為には1円たりとも投資してはならない

 

 宝くじに限らず、全ての賭け事は損をするように出来ている。パチンコは台の状態や釘の配置などを見ることである程度当たるか予測できる、等と馬鹿なことを言い出す輩がいるようだが、ただのデマカセでしかない。その程度の予測で当たるならパチンコ屋はとっくに廃業に陥っている。

 

 金を掛けて損をすると、損を取り返すためにまた金を掛ける。ごく希に当たることはあっても、掛けた金額以上が戻ってくる事は無いので、最後には身を破滅させることになる。

 

 身を破滅させないようにするにはどうすれば良いか。現実主義になるしかない。

 ギャンブルは「儲ける」為の手段ではなく、最低限、一定の金額を払って楽しむ「遊び」でしかない認識を持つことである。そして、自分が「遊び」如きにどれだけの金を投資できるかを冷静に見極めなければならない。

 

 ギャンブルに興味の無い人は、こんな事を考える必要も無いが、少しでもギャンブルの世界に足を踏み入れてしまっている人は、それが「遊び」に過ぎないことを理解するべきだ。

 

 「宝くじは夢を買っている」等と言う言葉を絶対に信じてはいけない。金で買える夢などこの世に存在しない。仮に宝くじが当たったとしても、それは偶然でしかないので二度目はないと思うべきだ。

 

 パチンコで勝ったとしても、それはたまたま「当たる台」に座ったからであり、偶然の産物でしかない。間違っても自分の腕が良かったと思うべきではない。やはり二度目はないと思うべきだ。

 

 誰かとじゃんけんをして、勝ったら相手から100円をもらい、負けたら相手に100円を払う、というゲームを、貴方ならやりたいと思うだろうか?

 やりたいと思うのなら危険である。

 

 じゃんけんで勝つ確率と負ける確率は同じなので、確率的に考えれば100円が行ったり来たりするだけである。一時的に相手の持ち分や自分の持ち分が増えることはあっても、長い目で見ると、どちらかが0円を、どちらかが100円を手に入れる。

 どちらが100円を手に入れるかの確率も50%でしかない。

 

 不思議なことに、人間は「勝てる」という確信や見込みが無い限りはネガティブに捕え「負けるかもしれない」と思い込みがちである。だから、上記のような勝率50%の賭け事でも、普通の人は「負けるかもしれない」と悪い方向に考え、やらない。

 

 宝くじやパチンコはそれよりもはるかに勝率が低いのだから、まともな思考を持っている人間であれば、やるわけが無い。宝くじを買ったり、パチンコをやったりする人間の思考がどれだけ異常な状態に陥っているか、まずはその事を理解するべきだ。

 

 私なら、そんな遊びには1円たりとも支払いたくない。

私達はTVやインターネットにより思考が停止している危機感を感じるべきだ

  • 2018.03.18 Sunday
  • 08:00

 インターネットが普及してから、私達の日常生活は大きく変化した。その変化の中で、私達はあまりテレビを見なくなった。

 かつて、テレビは私達に情報を提供する貴重なデバイスだったわけだが、インターネットの普及により、情報を得るのに必ずしもテレビは必要では無くなった。むしろ、変化の方向性はテレビからスマートフォンやパソコンに移行しようとさえしている。

 

 テレビが完全に消えて無くなる、という事は、まだそう無いだろうが、変化の方向性は間違いなくその方向へ進んでいる。

 

 テレビというのは非常に退屈なデバイスだ。

 何がつまらないかというと、一方的にこちらに話しかけてくるだけで、こちらの話を全く聞いてくれないのが実に面白くない。画面の中には様々な人物が登場し、時に我々に語りかけてくるような口調で喋っている。が、無論彼らは我々に話しかけているのではない。目の前に設置されているカメラに向かって話しかけている。

 テレビ画面の前で、我々が幾ら面白おかしく笑ったり、腹を立てたり、言葉を返しても、画面の中の相手には何も伝わらない。

 

 テレビは一方通行である。

 従って、テレビとは一方的に我々に好き勝手にありとあらゆる情報を流し続ける機械と言える。こちらの都合などお構いなしだ。

 

 ただそれが正しい情報で、かつ必要な情報であればまだ許せる。

 我々にとって有益な情報を提供してくれるのであれば、我々もテレビを見る価値があるというものだ。

 だが、いつもそうとは限らない。

 

 画面の中の人間は、都合の良い事実だけを我々に伝え、都合の悪い事実はひた隠しにする。我々にとって「必要か/不要か」など二の次である。

 

 昔はテレビで報道された内容を鵜呑みにしている人も多かった。それは、テレビ以外に情報を得られる手段が少なかったことが大きな要因だろう。

 だが、今や情報を得るには、テレビよりも都合の良いインターネットが復旧している。すると、人々はテレビよりもインターネットの方をより多く利用し、情報を収集するようになった。

 

 すると今まで真実だと思っていたテレビの内容が、実は嘘っぱちだったことに気付く。彼らは自分たちや日本の社会に都合の良い事実だけを大きく報道し、都合の悪い事実は報道しない。こうした事実がインターネット上で暴露された事により、徐々に人々はテレビを信用しなくなった。

 

 

■テレビは想像力を失わせる

 

 私自身もテレビを殆ど見なくなっている。

 部屋に一台テレビがあるにはあるが、殆ど点ける事は無い。

 

 昔は、テレビでドラマや映画を楽しむ事があったが、ある時を境に、そうした楽しみが殆ど無くなってしまった。

 それは本を読むようになってからだ。

 

 ここから、少しばかり私の昔話に付き合って頂きたい。

 

 私は推理小説が好きで、学生時代からよく本を読んでいた。それこそ貪るように読んでいた。学校帰りの途中にある古本屋に立ち寄っては、二三冊本を購入して、それを帰りのバスの中で読むのだ。家に帰ってからもその続きを読む。文庫本で300頁くらいの長編小説なら、夜寝る前までに全部読み切ってしまう。それでも読み足りず、二冊目を読み進めて、夜眠れなくなる事もあった。

 

 きっかけは松本清張の『ゼロの焦点』だった。

 それまで字ばかりの本など退屈極まりないと敬遠していた私が、何のきっかけだったか、ふと学校の図書館に置いてあった『ゼロの焦点』を手に取ったのだ。

 多分、何となく聞いた事のあるタイトルだったから、くらいの軽い気持ちで手に取ったのだと思う。読んでみてつまらなかったらすぐやめれば良い、と思って読み始めたら、どうしてか、ページをめくる手が止まらなくなった。

 

 私は『ゼロの焦点』の世界に没頭した。現実の私は学校の図書館にいるのだが、頭の中は完全に本の世界に入り込んでいた。

 

 『ゼロの焦点』を読んだ事がきっかけで推理小説にはまってしまった私は、次から次へと様々な本に手を伸ばすようになっていった。

 そして丁度その頃から、私はテレビを見ないようになっていた。当時インターネットもあまり普及しておらず、パソコンはおろか、携帯電話すら持っていなかった私は、本を読む事に没頭していた。

 

 テレビを見なかったのは、単に本を読むのに時間を割いていた、という理由もある。だが、それ以上に、テレビを見るととてつもない不快感を覚えた、というのが主な理由である。

 それは、あるドラマを見たときの事だ。どういうわけか違和感を覚えた。言葉では言い表せない、なんとも言えない違和感だった。

 

 テレビ画面の中では有名な俳優陣がキャラクターを演じている。別にそれは悪くない。演技が下手という事でも無い。ストーリーも別につまらないわけでは無い。だが、どうしてか、本を読んでいるときに感じた、自分が物語の世界に入り込む、と言う感覚を味わえないのだ。

 それから次第に私はテレビから離れていった。ドラマや映画、アニメが嫌いと言う事では無いのだが、どうにも馴染めなくなってしまった。

 

 今ならその理由はハッキリと分かる。当時はあまり気付いていなかった事だが、それは「テレビが想像力を失わせる」という事実だった。

 

 本は活字だ。音も聞こえないし、映像も見えない。

 だが、私の頭の中には、確かにキャラクターの声が聞こえて、映像が見えていた。頭の中で、音声を、映像を、私自身が想像していたからだ。

 活字を読んでいるのに、私の頭の中では、常に物語の世界が映像として浮かび上がっており、その中でキャラクター達が生き生きと動いていた。

 

 まさに物語を作っていたのである。

 

 もちろん元となっているのは目の前にある本―小説であり、作者は私では無い。だが、本を読むことで、私の頭の中では私自身が作った物語がさながら映画の様に流れていた。この時、私は間違いなく物語の世界に入り込んでいた。

 

 こうした感覚はテレビでは決して味わえない感覚だった。

 

 映像や音声を一方的にこちらに流し込んでくるテレビは、私の想像力を停止させる。いや、強制させる。

 映画のワンシーン、何気ない街並みの風景も、登場人物の容姿も、その声も、全て強制される。

 無論、それが映画という作品だからだ。カメラで切取られる映像から、キャスティングも全て作品の一部であり妥協を許すことは無いのだろう。人々に強制的に植え付けるイメージだからこそ、そこにはコダワリがあるに違いない。

 

 しかし、この「イメージを強制される」という事が、本を読むようになった事で私には馴染めなくなってしまった。

 

 

■同じ台本でも制作者が違えば全然違う映画が出来上がる

 

 名作と言われる映画は、何を持って名作とされるのか。

 それは全ての要素がバランス良く高いクオリティで備わっていることを言うと、私は考えている。

 シナリオ、キャスト、映像、効果音、BGM…その他映画を構成している全ての要素。

 

 ただ、どんなに名作と言われる映画でも、私にはどうしても馴染めない作品がある。

 それは、映画を見る前に原作の小説を読んでしまった作品だ。

 

 つまらないとか、そう言う次元の話しでは無い。「馴染めない」のだ。

 小説を読んだが為に、私の頭の中には、私自身の「映像」が完成されてしまっていた。だが、もちろん映画はそれとは全く違う世界観で描かれる。ストーリーこそ同じだが、場面や登場人物の容姿や音声は全くかけ離れている。当たり前の事だ。

 

 だが、それが馴染めないのである。

 

 そんなのはお前の勝手だ、と言われてしまえば元も子もない。当然、私の都合でしか無い。私は100%私の都合で、その映画に馴染めないと言っている。映画を作った人のせいではない。

 繰り返すが、映画がつまらないと言っているわけでは無いし、駄作だと思っているわけでも無い。

 あくまで私が作品に抱いていたイメージと異なったから、イメージを壊されたような気分になったので馴染めない、という意味である。

 

 ある一冊の小説を元にして、二人の人間がそれぞれ独自に映画を作り始めたら、おそらく全く異なる映画が出来上がるに違いない。なぜなら、活字から読み取る世界観がそれぞれ異なるからだ。

 10人の人間が作っても、異なる作品が出来上がるに違いない。当然、似たり寄ったりという所はあるだろうが、全く同じにはならない。

 

 言い換えれば、活字から読み取れる世界観は無限に広がっているという事である。故に、本を読むという行為は想像力をかき立ててくれる。それが私には実に楽しく、わくわくさせてくれる。

 

 逆に、私にとってテレビの映像はちっとも楽しくない。

 想像する楽しさを私から容赦なく奪っていくからだ。

 

 

■テレビを見ている間、私の思考は停止している

 

 テレビは実に様々な番組を放送している。ニュース、バラエティ、ドキュメンタリー、ドラマ、映画、アニメ、音楽、教育番組…。

 

 どんなジャンルにおいても、テレビは我々に強制してくる。番組の進行具合から映像、音声に至るまで全て。こちらの都合はお構いなしに、勝手に喋り、こちらが内容を理解しようがしまいが、勝手に話を進めていく。

 それがテレビというものだ。

 

 学校では授業を聴いただけでテストで高得点を取れる人はあまりいない。テストで高得点を取る人の大半は、授業を聴いた後に復習をしているはずだ。

 基本的に授業とはインプットする行為だからだ。そして、テストはインプットした情報をアウトプットする場である。

 どんなにインプットを頑張っても、アウトプットする練習をしなければ、アウトプットは上手くならない。

 

 インプット情報は、我々にとって必要不可欠である。しかし、それらを使わなければやがては忘却の彼方へと消えていく。

 学生時代必死で暗記した英単語や歴史上の出来事や数学の方程式は、時間が経てば大抵の人は忘れてしまう。しかし、子供の頃乗れるようになった自転車は、大人になっても乗り方を忘れない。

 それは自転車の乗り方というインプットを練習したのではなく、「実際に自転車に乗る」というアウトプットを何度も練習したからだ。

 

 インプットしただけでは、その情報は有効に活用されることはない。インプットしただけで、試験で高得点が取れるのなら、受験勉強など必要なくなる。インプット情報は、それを自分自身の中で正確に解釈し、それを利用する事で初めて己の糧となる。

 

 テレビも同じだ。

 テレビを見るという行為は情報のインプットである。どんなジャンルであれ、テレビにより我々は何かしらの情報をインプットする。

 だが、情報をインプットしただけではその情報は自分のものにならない。テレビによってインプットした情報を自分の中で解釈し、どのように利用するかを考え、それをアウトプットする事によって初めてインプット情報が自分のものになるのである。

 

 テレビは、情報をインプットするのには適しているかもしれないが、こちらの時間や都合などお構いなしに勝手に喋ってくるので、インプット情報を自分自身の中で解釈する余裕がない。

 

 人間は複数のことを同時にこなす事が苦手な生き物である。

 誰かの話を聞きながら、同時に聞いた内容を考えられる人はそういない。どんな人でもそうだが、話を聞き終わった後で、考えるのである。

 

 相手から一方的に大量の情報を話しかけられると、何を言われたのか分からなくなって混乱してしまう事がある。それは話を聞くという作業―即ちインプットに集中しているため、相手の言葉を自分の中で解釈し、理解する余裕がないからだ。

 

 テレビを見ている間も全く同じ状況に陥る。

 テレビを見ている間、画面の映像や聞こえる音声をインプットするのに夢中で、インプットされた情報を頭の中で整理したり理解したりする余裕がない。

 つまりテレビを見ている間、我々の思考は停止している。

 

 

■真に知識を得るには行動が伴わなければならない

 

 教養番組ばかりを見て知識を溜め込んで、それで賢くなっていると思い込んでいる人がいたら、その人は全然賢くない。そう思い込んでしまっている時点で既に賢くない。

 料理番組を見ただけでは料理が作れるようにならないのと同じだ。それを実践しなければ手に入れた情報は自分のものにはならない。

 

 こんな当たり前の事実を、多くの人が分かっていない。

 

 無論これはテレビに限った話しではない。

 インターネット上のビデオや動画、その他ネット上の記事、あらゆるものにおいて同様のことが言える。我々がインターネットを使う理由の一つに情報のインプットがある。

 しかし、インプットしただけでは、やはりその情報は自分のものにならない。時間が経てばやがては忘れてしまう。

 

 「知行合一」という言葉がある。

 

 真の知識とは単に知っていると言う事ではなく、行動や経験によって身につくという事を表現した言葉である。

 単に知っている、というだけでは知識とは言えない。それを実践できるからこそ知識と言える。

 

 料理の作り方を知っているだけで、実際に料理を作っていないのなら、それは料理が出来ない事と同じである。

 車の運転の仕方を知っているだけで、実際に車を運転していないのなら、それは車が運転できないペーパードライバーである。

 パソコンの使い方を知っているだけで、実際にパソコンを使っていないのなら、その人はやはりパソコンを使えないであろう。

 

 何らかのジャンルにおいて卓越した知識を持っている人というのは、そのジャンルにおいて実践的な経験を積んでいる人である。だからこその「知識」は価値のあるものと言える。 逆に実践経験を積んでいない人の知識は実に薄っぺらい。

 困ったことに、後者のような薄っぺらな知識を持っている人の方が、他人にあれこれと自分の知識を吹聴し回ったり、他人の欠点を指摘して優越感に浸ったりするのだから、迷惑極まりない。我々はこうした人を「知ったかぶり」と呼ぶ。

 

 だが、冷静に相手を観察し、相手の言葉に耳を傾けてみれば、相手が「本物の知識人」か、それともただの「知ったかぶり」か、区別をつけることはそう難しい事ではない。「知ったかぶり」が持っている知識は、やはり薄っぺらなものでしかなく、「本物の知識人」が持っている知識は紛れもなく本物だからだ。

 そして、一度「本物の知識人」に出会うと、我々は本物の凄さに圧倒される。同時に「知ったかぶり」に失望し、二度と「知ったかぶり」には騙されない。彼らの知識はただの偽物である。

 

 その真価が試されるのは、相手とのコミュニケーションの中で試される事になる。もっと具体的に言うと、相手に質問したときの相手の答えこそが、相手が「本物」であるか、ただの「偽物」であるかを見極めるポイントと言える。

 

 「本物」の知識を持っている人は答えも具体的で的確である。どんな質問をされても的確な答えが返ってくる。そして、自分に質問された知識が無い場合は「自分には分からない」と明確に告げてくる。

 しかし、「偽物」の知識しか持っていない人は答えも曖昧でどこかふわふわしている。そして、どういうわけか「分からない」事を認められない人が多い。どうせ相手も分かっていないのだから、という事で適当なことを言ってその場を凌いだりする。

 すると聞いている我々は違和感を覚える。

 

「この人は、本当は分かっていないのではないだろうか?」

 

 授業中に教師に質問しても明確な答えが返ってこなかった経験は無いだろうか?両親に「あれはダメだ/これはダメだ」と否定され「どうして?」と聞き返しても明確に答えてくれなかった経験は無いだろうか?上司や先輩に疑問点を質問しても的確なアドバイスが返ってこなかった経験は無いだろうか?

 

 相手の人間性に問題があった可能性もある。だが、その根底に「偽物の知識」しか持っていない事が根ざしているのは間違いあるまい。とりわけ、自分より立場が下の人間に「偽物の知識」しか持っていない事がバレるのを恐れているので、素直に分からない事を認めない。だから、明確に答えられない。

 

 「本物の知識」を持っている人は、どうすれば「本物の知識」を身につける事が出来るかを理解しているので、自分が「分からない」という事を恐れたりしない。むしろ「自分には分からない」事が分かった事をチャンスと思うだろう。新しい知識を身につけるチャンスだと思うだろう。そして、どうやってその「分からない」知識を理解して、自分のモノにしようかと、貪欲に質問に向き合ってくるはずだ。

 

 

■インプット情報を遮断してみる

 

 私達の周りは情報で溢れている。パソコン、スマートフォン、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌―。駅や電車の中を見渡せば、壁の隙間を埋め尽くすかのように広告やポスターが貼られている。

 

 常に私達は大量の情報に接している。

 こうした環境に身を置いていると、無意識の間に情報をインプットすることに専念してしまう。

 目の前に美味しそうな料理があると、お腹が減っていないのについつい食べてしまいたくなるのと同じように、すぐ触れられるインプット情報があると、人はその情報に飛びついてしまいがちになる。

 

 そして、インプットする事ばかりに専念した結果、結局自分が大した知識も有していないことに気付いた時には、既に多くの時間を浪費してしまっている。これは実にもったいない事だ。

 

 その為には、一旦インプットする作業を中断しなければならない。

 テレビにもラジオにもインターネットにも触れない時間を意識的に作り、情報のインプットを一旦遮断する。

 

 テレビを消し、パソコンもシャットダウンし、スマートフォンも電源を切る。他人の話し声も立派なインプット情報になるのでそれも遮断する為に、部屋のドアを閉め窓も閉め鍵を掛ける。日光が鬱陶しければカーテンも閉じる。いや、目を閉じ耳を塞いだ方が早いかもしれない。

 そうして自分自身の感覚を研ぎ澄ませていく。昔の人は実に上手いことを考えたものだ。そう、これは「座禅」と同じである。

 

 「座禅」とは己の集中力を高めるために心を無にする行為であるが、同時に周囲の情報をシャットアウトするという効果もある。

 

 深呼吸をして気持ちを落ち着かせる、という行動も同じだ。酸素を体内に送り込むことにより脳の動きを活発にさせる、という目的もあるだろうが、深呼吸―つまり自分の身体の中に空気を送り込むという作業に集中することで、インプットする余裕を与えないようにするという効果がある。

 人間は一つのことに集中すると他の事への集中力がおろそかになるので、深呼吸に集中することで、情報をインプットする事への集中力を低減させる効果が期待できる。特別な道具もいらないし、実に手軽に出来る。

 

 いずれにしても、私達は情報過多になっている社会で生きている事にもっと危機感を持つべきだ。私達は無意識のうちに情報によって思考を停止させられ、貴重な時間を奪われている事に気付くべきだ。

 

 そして、その情報から逃れることはそう難しい事ではない。ほんの少しの間、身の回りの空気を吸い込むだけで、その第一歩が踏み出せるのなら容易いことである。

どんなに複雑な物事でも細分化すれば単純な事になる

  • 2018.03.03 Saturday
  • 16:32

 生活していく上で人々は様々なタスク(問題)を抱える事になる。それらを一つ一つ解決しなければ人生は充実しない。

 山あり谷ありの人生とは言え、山ばかりの人生ではやはり苦行以外の何物でも無い。多数のタスクを抱え込んでそれらを解決できずに悩んでいる人生など誰も望んではいないだろう。

 

 問題は簡単であればあるほど解きやすいのは言うまでも無い。仕事でも勉強でも家庭環境でも友人関係においても。

 しかし、己の身に降りかかってくるタスクは単純なものばかりではない。では複雑な問題に直面したとき、我々はどのように対処していけば良いのか。

 

 最も単純かつ明瞭な答えは、そもそも問題を抱え込まないという事である。つまり、複雑なタスクを回避するという事だ。あの手この手を使って、なんとか抜け道を探してタスクを避けて通る。

 

 だが、我々に降りかかるタスクは戦場に埋め込まれた地雷のようにあちらこちらに散らばっており、その姿を隠して存在していて、目に見えない事も多い。従って、全ての地雷を避けて通るのは不可能だ。

 

 避けられないのであれば、何らかの方法で処理するしか無い。

 

 複雑なタスクを解決する方法は幾つか考えられるが、おそらくどのようなジャンルにおいても共通して言えるであろう、一つの方法がある。

 それが「細分化」という考えである。

 

 

■複雑であればあるほどに答えまでの道のりが見えにくくなる

 

 そもそも、複雑だと感じる理由はどこにあるのか。それは「見通しがつかない」事にある。言い換えればタスクを解決するまでの道筋が見えないと言う事だ。霧に包まれた道を進んでいくように、あるいは長いトンネルを進むように、迷路に迷い込んだかのように、ゴールが見えない、出口が見えない。

 そんな時、人は共通してそのタスクを複雑なモノ、難解なモノだと感じる。

 

 だが、どんな複雑で曲がりくねった道だろうと、見通しの悪い道だろうと、自分の足下すら見えないような状況はさほど多くは無い。一歩先の道であれば、誰もが踏み出す事の出来る距離にあるはずだ。

 そして、一歩踏み出すという行為そのものは単純な行為である。

 複雑な迷路をクリアするにしても、長いトンネルを進むにしても、ゴールまでの道筋は、一歩進むという単純な作業の繰り返しになる。

 この事を正しく理解している人は、複雑な問題に遭遇してもあまり深く悩まないし、不安になることも少ない。つまり、複雑なタスクを、一旦単純なタスクに分けて考えるという事だ。

 

 数学に積分法という計算方法がある。主に、図形の面積を計算するときに使う計算方法だが、これも同様に「細分化」の考え方である。

 

 以下の様な二つの長方形の内どちらが大きいか?と問われれば、おそらく殆どの人が右の長方形を選ぶだろう。横幅が同じで高さが異なる長方形だから、大体の人は見た目で答えられる。

 

 

 では次のような図形であれば、どちらが大きいと言えるだろうか?

 

 

 曲線で囲まれた部分の広さを求めるのは容易ではない。同じ曲線でも円の面積であれば、我々は小学校の頃に既に学んでいるが、世の中に存在する図形は綺麗な円や長方形ばかりでは無いし、むしろ複雑な形状をしている事の方が多い。

 

 このような場合は、一旦曲線で囲まれた部分を以下の様に細かい長方形に切り分けて考える。面積の求めやすい短冊状に図形を細分化し、切り分けた長方形の面積を一つ一つ計算した後、最後に全部を足し合わせるという事だ。即ち「細分化」をするのである。

 

 

 この方法は巧妙ではあるが、同時に不完全でもある。

 どのように切り分けようとも、曲線は曲線であり、直線では無い。従って、長方形に切り分けると言っても、それは完全な長方形ではない。切り分けた長方形の面積ではどうしても誤差が出てしまう。

 

 この誤差を少なくするにはどうすれば良いか。無論、切り刻む幅を可能な限り小さくしてやれば誤差は小さくできる。

 しかしそうすると今度は誤差が少なくなる代わりに手間が増える。より細かく細分化したため、計算しなければならない長方形の数が増えるのだ。

 

 そこで数学の世界では「極限」という理論を利用するのだが、その理論は中々に難解であるためここでは割愛する。

 

 今ここで言いたいのは、我々が遭遇する複雑なタスクを解決する際も、大体この「積分法」で計算する事と同じような状況に陥るという事である。

 

 

■どんなタスクにおいても細分化が応用できる

 

 カレーライスを作るというタスクについて考えてみる。

 殆どの人は、カレーライスという「完成品」を知っている。だから、タスクの答えはイメージが出来る。だが、完成品を知っているだけではタスクをこなした事にはならない。

 

 ではどうするか。

 まず材料について考える。材料とは、カレーライスという完成品の構成要素だ。どのような種類の食材が、どのくらいの分量必要か、という事を知る必要がある。次にそれらの材料を、どのように調理すれば良いのか?その具体的な方法を知る必要がある。

 

 従って、カレーライスを作る、というタスクを細分化すると以下の様になる。

 

・食材の種類は何があるのか?

・各食材の分量はどの程度か?

・食材を調理する方法と、その順序は?

 

 この三つのタスクをクリアする事でカレーライスを作る、という本来のタスクをクリアする事が出来る。

 単純な例だが、どんな複雑なタスクにおいても、この「細分化」の考えは応用できる。逆に、細分化しなければ何をしていいかが分からないであろう。

 

 例え細分化したとしても、やはりどうしていいか分からないときもあるが、そう言う場合は更に細かく細分化して考えれば良い。

 調理する手順の中に、お湯を沸かす、という手順があったとするなら、使う水と器の種類はどんなモノを用意すれば良いのか、といった単純なレベルまで細分化してやれば、おそらく殆どの人は悩まずに作業が出来るはずだ。

 

 人によっては「そんな細かいところまで考える必要は無い」と言ったり、「そんな事まで考えないと出来ないのか?」と言ったりして、馬鹿にする人もいるが、これは大きな誤解である。全ての事象は、細分化された事象の組み合わせで構成されているからだ。

 

 エジプトの巨大なピラミッドも、それらを構成している要素は細かい石や砂の固まりだし、ローマ帝国のコロッセオでは小さなアーチを何重にも積み上げる事で頑丈な闘技場を形成した。このコロッセオを細分化すれば、やはりそれは一つの小さなアーチに過ぎない。だが、その一つ一つはコロッセオを生み出す上で決して欠かせないパーツなのだ。

 

 これはもう断言しても良い。細分化して物事を考えられない人は、十中八九人生で躓く人である。しかも躓いたとしてもその原因が分からず、何度も同じ過ちを繰り返す人でもある。

 

 なぜ躓くのか。

 それは問題の本質を理解できていないからだ。細分化して考えなかったがゆえに、問題の本質を見抜けない。だから、大体の感覚や勘に頼って問題を解決しようとする。

 感覚や勘は当たる時もあれば外れるときもある。だから躓くのである。

 しかも、感覚や勘を頼りにした故に、例え上手くいっても、失敗しても、その理由は分からない。なぜ上手くいったのか?なぜ失敗したのか?その理由が理解できないのだ。

 

 問題を細分化して考えていれば、例え躓いたとしても、どのような工程で躓いたのかがすぐに分かる。そうすれば、原因も理解しやすく、例え失敗したとしても解決までのスピードが速く確実なモノとなりやすい。

 

 

■一見遠回りに見える道が実は近道だったりする

 

 細分化を嫌う人の性格で共通しているのは、面倒くさがりだったり、せっかちだったりする点であろう。

 

 細分化は時間や手間が掛る。

 面積を細かい長方形に分割して計算するのと同じように、面倒な作業を沢山こなさなければならない。

 複雑であればあるほど、なるべく単純なタスクに細分化するためには、より多くの細分化をしなければならない。すると必然的にタスクが増える事になる。

 一つ一つは単純タスクかもしれないが、やはり面倒だし、時間が掛る。面倒で時間が掛る事は、出来るなら避けたい。それは誰もが思う事だ。

 

 しかし、あらゆるタスクは細分化無しで解決する事は出来ない。長方形の面積も計算できないのに、曲線で囲まれた面積を計算する事など出来ない。単純なタスクもこなせないような人間に、複雑なタスクをこなせるわけが無いのだ。

 

 一見すると時間や手間が掛って遠回りに思える方法が、実は近道だったりする場合はかなり多い。物事を細分化して考えられる人は、その事を知っている。

 タスクを細分化せず、何となく挑むのは危険だ。道順の知らない迷路に飛び込んで行くようなものである。上手く抜け出せる時もあるが、それは偶然に過ぎないし、そんな偶然はめったに起きない。

 

 更に、細分化しない人にありがちな誤解がある。そもそも細分化という方法が無駄だと思い込んでいる人が多い。そんな事をしなくても何とかなると思い込んでいる人が多い。何となくそう思っている、というレベルでは無く、本当に無駄だと思っている人がいるので、むしろ驚かされる。

 実際に、細分化しなかったが為に失敗したとしても、あの時は調子が悪かったから、とかたまたま運が悪かったから、とかもっともらしい理由をくっつけて自分に言い訳をしてやり過ごすのである。

 

 それでは成長するは出来ない。

 

 失敗は成功の元、即ち失敗は成長するために重要な糧となる。しかし、それは失敗した原因を正しく理解しているから言える事だ。失敗した原因を理解できなければ、何度も同じ失敗を繰り返す事になる。

 失敗した原因を理解するには、どこでどう躓いたのか、原因を細分化して考えなければならない。

 

 何度も失敗を繰り返せば、成功までの道のりは自ずと長くなる。成功するまでに時間が掛ってしまう。これを防ぐには、失敗する回数をできる限り減らす必要がある。その為に細分化が必要になる。

 細分化は無駄では無い。むしろ、時には成功までの最短経路を示してくれる事さえある。

 

 

■人間は同時に複数のタスクをこなせない

 

 仕事でも日常生活でも、私達は常に忙しい。やらなければならない仕事は沢山あり、やりたい事も沢山ある。限られた時間の中でそれら全てのタスクをこなすのは不可能だ。

 だから私達はあらゆるタスクに優先順位を付けて、優先度が高い順から順番にこなしていく。なぜなら複数の物事を同時に処理しようとすると上手くいかないからだ。

 

 これはもう人間の能力の限界と言って良いだろう。

 人間とはそもそも複数の事を同時にこなす事に向いていない。仕事で複数のタスクを掛け持ちしている人は沢山いるが、そう言う人でも異なるタスクを同時にこなす事は無い。今この瞬間ではこのタスクを、次の瞬間には別のタスクを、という具合に、タスクを切り替えて作業しているはずだ。

 

 人間には右手と左手と二本の腕があるのだからといって、右手で料理を作りながら左手でピアノを弾く、等という芸当は中々出来ない。一心不乱に修練を積めば出来るようにもなるかもしれないが、あまり意味は無いだろう。

 

 貴方が結婚式のスピーチを任されたとしたら、まずどうするだろうか?何も考えずに、ぶっつけ本番でスピーチをしようなどとは思うまい。口が達者な人であれば可能かもしれないが、おそらく殆どの人は前もって話す内容を考え、紙に書いたりして話す内容を整理するはずだ。

 つまり結婚式でスピーチするというタスクを「スピーチの内容を考える」というタスクと「実際にスピーチする」というタスクに分解してこなすのである。人によっては、この二つの間に「スピーチの練習をする」というタスクを挟む人もいるかもしれない。

 

 いずれにしても、前もって考えずにスピーチに臨むという事は、スピーチの内容を考えながらスピーチする、という二つのタスクを同時にこなさなければならない。だが、それは大抵の人とって至難の業だ。

 訓練すれば出来るようになるかもしれないが、一朝一夕にマスターできる事ではない。

 

 タスクが複雑化すればするほど、複数の要因が絡み合って形成されるため、自ずとやらなければならない仕事が増える。あまりにも仕事が増えすぎると、人間の脳は許容限界を超えてパニックに陥り、やがては何も考えられなくなり、行動が止まってしまう。

 

 これは誰しも経験のある事では無いだろうか。

 

 仕事であまりにも沢山のタスクを一気に振られて、どこからどう手を付けていけば良いか分からなくなる。受験シーズンになると、受験生は勉強に勤しむが、あまりにも科目が多すぎてどの科目から手を付けていけば良いか分からなくなる。

 

 考えようとしても糸口が見つからず、いつまで経っても行動を起こせなくなってしまう、最悪の状況に陥っている人もいる。そうなると周囲からは「何も出来ないヤツ」と言われ、無能の烙印を押される。

 そうやって精神的に追い詰められると尚更身動きが取れなくなる。これが悪化するとどうなるか知っているだろうか。そう、鬱になるのである。

 

 

■一番辛いのは「どうしたら良いか分からない」という状況

 

 月100時間以上の残業をさせられる。

 売上げを1000万円上げるようなノルマを課させられる。

 休日返上で出勤を命じられる。

 やっと手に入れた休日に会社から呼び出しの電話が掛ってくる。

 

 こうした事は誰しも、大変で辛い状況だと思うかもしれない。殆どの人はこう言う状況に陥りたくは無い。だが、これらは辛い状況ではあるが、それはあくまでも辛い状況を促している要因に過ぎない。

 なぜなら、こうした状況を辛いと感じる人もいれば、やりがいがあると感じる人もいるからだ。

 

 では辛いと感じる人は、なぜ辛いと感じるのか。

 それは「どうしたら良いか分からなくなるから」である。

 あまりにも無理難題を押しつけられたり、大量のタスクを押しつけられたりする事によって、どうやって無理難題なタスクを解決すれば良いか分からないから辛いのである。

 

 仮に難易度の高いタスクを押しつけられても、そのタスクを解決するまでの道筋が分かれば、それは決して辛い状況にはなり得ない。むしろ難易度が高いが故、大きな成果を上げる事が出来る。それは後々己の人生を充実させてくれるかもしれない。

 

 つまり我々は「どうしたら良いか分からない」という状況を何とかして避けなければならない。

 逃げるだけで問題が解決するなら逃げれば良い。だが、多くの場合、逃げるだけでは問題は解決しない。なぜなら我々の人生の選択肢は無数に存在するからだ。

 

 ブラック企業に就職してしまい、仮にその会社から逃げたとしても、逃げただけで次の就職先が見つかるわけでは無い。就職できる会社は世の中に無数に存在するため、一つや二つ選択肢を消したからといって、次の選択肢が自ずと決まる、等という事は絶対に無い。

 従って、逃げるときには常に「逃げた後にどこに行くのか」行き先を決めておかなければならない。そうしなければ路頭に迷う事になる。

 

 戦場で不利な状況に陥ったときに逃げるのは「戦略的撤退」だ。私達も人生の中で逃げるときは、何らかの戦略を練っておかねばならない。そうで無ければ、次の方向性を見失う。

 

 新しい道に進むために逃げる事は決して悪い事ではない。むしろ状況によっては必要な事だ。高くジャンプするには一度低くしゃがみ込まなければならないのと同じである。

 しかし、しゃがみ込んだだけでジャンプしないのであれば、後はせいぜい床に這いつくばるくらいが関の山だ。こうした最悪の状況を打破する為には、逃げるときに次の行動を決めておく必要がある。

 

 ありとあらゆる選択肢があるという事は、それだけ複雑な状況であると言える。つまり、ここでも細分化が必要になってくる。

 様々な選択肢があるなか、自分がどの道に進んでいくかを、一つ一つ噛み砕いて吟味し、進むべき道を決めていくのである。

 

 結局どのような状況に陥ろうと、我々は「細分化」という手法なくしては生きていく事が出来ない。

 

そんなに税金が欲しいなら消費税を上げずに給料を上げろ

  • 2018.02.26 Monday
  • 23:18

 消費税の引き上げが2019年10月に延期された。しかしながら、それはあくまで延期でしか無い。このままでは消費税が10%に引き上げられるのは時間の問題である。

 日本政府の馬鹿げた悪行は数知れないが、消費税アップはその中の一つに数えて良いだろう。

 

 消費税を引き上げる目的は何だろうか?

 こう尋ねると、国にお金が無いから、その不足分を補うため、と答える人がいる。だが、実際はそうでは無い。

 政府が消費税を引き上げるのは、我々の所得が減っているからだ。

 

 所得が減っているのに消費税を引き上げる。これは全く持って馬鹿げた行為である。

 消費税とは、消費者達がものを買う事で巻き上げられるお金の事だ。買い物をすると8%分だけ政府が掠め取っていくのである。

 これを防ぐ方法は現時点で存在しないが、なるべく被害を少なくする方法はある。

 

 それは消費を減らす事である。

 

 消費する事で消費税分のお金を吸い取られるのだから、吸い取られる分を減らすにはなるべく消費しないようにするしか無い。

 

 消費者が消費しないようになれば、当然消費税によって回収される税金は減る事になる。だから政府は消費税を引き上げる。

 消費税を引き上げると消費者はより一層消費しなくなるので、ますます消費税が回収しにくくなる。だからまた政府は消費税を引き上げる。

 

 これの繰り返しである。

 

 消費者達が皆裕福であり、ばらまくほどに金を持っているのならこんな事にはならない。8%分を掠め取られたくらいで打撃を受ける事が無いほど裕福なら。

 

 だが多くの消費者はそうでは無い。国民の所得は年々減り続ける一方なので、何とかして彼らは消費を抑えようとする。そこに消費税がアップすれば、ますます消費を抑える行為に拍車が掛る。

 従って、消費税を引き上げる行為は逆に消費税を回収しにくくさせる事になる。それなのに、日本政府は凝りもせず消費税をまだ引き上げようとしている。このような無意味な事をやる人間を、漢字二文字で何というか、誰でも知っている。

 

 そう「馬鹿」である。

 

 はっきり言おう。消費税を引き上げようとしている日本政府はどうかしている。頭がおかしい、気が狂ってるとしか思えない。

 

 そんなに税金が欲しいのなら、まずは消費者達の所得をアップさせなければならないのは目に見えている。所得が増えれば消費者達は欲しいものをたくさん買うようになるので、自ずと税金も徴収される事になる。

 

 もし政府がこの事実に気付いていないのなら馬鹿で無能としか言いようが無いし、気付いていてなおも消費税を上げようとしているのなら、やはり馬鹿で無能としか言いようが無い。

 

 …正直、そのどちらでもないと願いたいものだが、果たしてその様な答えがあるのだろうか?

 私は知らない。

創作者達は批判や賞賛など気にせず我が道を突き進めば良い

  • 2018.02.22 Thursday
  • 22:31

■モノを創れば好きになる人と嫌いになる人がいる

 

 モノを創る側の人間であれば誰もが知っている事がある。それは、創ったモノが他人の目や耳に触れた瞬間、我々は誰かしらから賞賛され、誰かしらから批判されるという事である。

 

 それはあらゆるジャンルにおいても共通することだ。絵画であっても、音楽であっても、文学であっても。必ず、その作品を賞賛する人間と批判する人間が現れる。

 

 誰からも賞賛されず、誰からも批判されない作品などこの世に存在しない。もしそんな作品があるなら、それは誰の目にも止まらず、誰の耳にも入らなかったという事である。

 とにかく、我々創作者は、作品をこの世に晒した時点で、誰かから賞賛されたり批判されたりする運命にある。

 

 もっと根源的な事を言うなら、我々は生まれた時点で、誰かしらから好かれ、誰かしらから嫌われる運命にある。誰からも好かれず、誰からも嫌われない人物がいるなら、それはその人物が社会性を持たず、誰とも関わらずに生きていると言うことである。

 

 100%の人間に好かれたり、100%の人間から嫌われたりするような人間は存在しない。

 100%の人間から賞賛されたり、100%の人間から批判されるような作品もまた存在しない。

 

 人間が生きていく為には、何かしらの方法で自分自身の存在や考え方を、周りに主張しながら生きていかなければならない。そうで無ければ、その人物は何の考えも主張も持っていない、と批判され嫌われる。

 だが、あまりにも自己主張が強い人間は、鬱陶しがられたり、自己中心的だとか言われて嫌われる。

 では主張もそこそこに、控えめすぎることもない中立な立場を保っていれば良いかというと、その生き方が姑息だとか卑怯だとか言われて批判され、嫌われるのである。

 

 逆に自己主張が強く主体性があるという理由で好かれる人もいる。控えめだから付き合いやすいと言う理由で好かれることもある。普遍的な性格だから一緒にいると安心できるという理由で好かれることもある。

 

 結局の所、周囲の人間から好かれたり嫌われたり、賞賛されたり批判されたりといった事を、自分自身でコントロールする事は出来ない。従って、何とかして好かれようと努力しても大抵の場合、無意味に終わる。

 上手く相手から好かれることもあるが、中々に面倒な事になる。自分自身の考えや主張を変えたり、根底から偽ったりしなければならないこともあるだろう。精神的にも肉体的にも負担が掛る仕事だ。

 

 

■賞賛も批判を無理にコントロールしようとしない

 

 どんな事柄にも、両極端の意見や考えを持っている人間が存在する。これは自分自身ではコントロール出来ないことである。従って、誰かから好かれようとしたり、嫌われようとしたりしても、必ずしも上手くいかない。

 

 これは他人の好みの問題なのだから当然だ。もし他人の好みをコントロールして、好きにさせたり、嫌いにさせたりすることが容易に出来るなら大変なことになる。異性に持てない人間は誰からも好かれるようになり、ストーカーや痴漢から付きまとわれる女性は手っ取り早く相手から嫌われる事も出来る。

 

 我々創作者が作品を創り、それを世に知らしめたとしても、その作品が好意的に取られるか、否定的に取られるかは、全ては受け手次第であり、創作者がコントロール出来ることではない。

 できれば誰からも好かれ、誰からも賞賛される作品を創りたいと願うのは、創作者達の都合だが、その考えは現実的では無い。

 

 従って、我々創作者達は他人から好かれたり、賞賛されたりすることを目的に創作を行ってはならない。好かれたり、賞賛されることはあっても、それはたまたま自分の創作物と受け手側の好みが一致しただけであり、偶然の産物と言える。

 

 この偶然の産物を狙って生み出そうとすると、大抵失敗する。

 

 だから誰からの賞賛も批判も「受け流す」のが一番ダメージが少ない方法と言える。褒められても喜ばず、けなされても落ち込まない。

 何だかとてつもなく面白みの無い結論だが、実際の所ダメージを負いたくない人はそうするべきであろう。

 逆にその手のダメージが創作活動をする上での「スパイス」になるというのであれば、上手く利用してやるのも手だ。誰かから賞賛されれば一人で祝杯を挙げ、勝手に盛り上がるのが良いだろう。批判されたなら、その悔しさをバネにして創作に打ち込んでも良いだろう。

 

 要するに、相手の批判や賞賛というコントロール出来ないことを無理にコントロールしようとしない方が良い、と言う事が言いたい。

 相手が自分の作品をどう受け取るかは相手次第だ。それと同様に、賞賛や批判をどう受け取るかは創作者次第である。コントロール出来ない批判や賞賛など気にせず、創作者達は我が道を突き進んでいけば良いのだ。

 

 

得意な分野で生き残れ

  • 2018.02.17 Saturday
  • 22:19

 魚は海、鳥は空、人は大地―。

 

 どんな生き物にも自分のテリトリーが存在する。それは己が最も力を発揮できる場所だ。生きていく上で、何が自分にとって得意なのか、どこに行けば自分の力を最大限発揮できるのか、理解する事は絶対に必要な事である。

 

 私の子供時代の出来事だが、私の学校は生徒数が少なく、体育の時間はほぼ全校生徒が集まって体育の授業を受けていた。それぞれの生徒には得意な競技があるが、おそらくどこの学校でも体育の授業では全員が同じ事をやらされる。

 サッカーが得意だからサッカーだけをやる、野球が得意だから野球だけをやる、柔道が得意だから柔道だけをやる、走るのが速いから陸上だけをやる、泳ぎが達者だから水泳だけをやる、というわけにはいかない。

 すると、当然ながらそれが得意な生徒と苦手な生徒との間に大きな開きが生まれる。

 

 私は学生時代バドミントンを部活動でやっていたので、他の生徒と比べればそれなりに上手だった。だが、体育の時間ではそんな事は関係なく、経験のない生徒と打ち合うことがあった。

 私はあまり手を抜かなかった。手を抜くのは怠慢だからだ。相手が強かろうが弱かろうが関係ない。別にイジワルをしているつもりは無かったし、スパルタ教官になったつもりも無いが、とりあえず相手の生徒には運が悪かったと思って諦めてくれ、と心の中で呟きながらシャトルを打ち合った。

 

 周りからは、それが容赦ないように見えたのだろう。私はあまり良い目で見られなかった。ちょっとしたブーイングも浴びた。もちろん体育の授業だし、本気で相手を叩きのめそうとかは思っていないし、周囲もそれは分かっていたのか、本気で私を非難したわけでは無い。

 ただ、よくよく考えてみると、おかしな話しではある。

 人は誰しも得意な分野と不得意な分野があって、得意な分野にいれば相手を出し抜くことができ、不得意な分野にいれば叩きのめされるのは当然のことだ。

 

 

■不得意を努力しても普通になるだけで終わる

 

 今の話しは学生時代の話しなので、笑い話で済ませることも出来る。

 だが、大人になってからは別だ。

 

 将来どんな職業に就くにしても、それは得意な分野で無ければならない。これは絶対に必要なことだ。この事は私自身、実に身にしみて感じている。

 会社勤めのサラリーマンになるにしても、自分で起業するにしても、芸能界に入るにしても、歌手になるにしても、医者になるにしても、美容師になるにしても、画家になるにしても、スポーツ選手になるにしても―。その方向性が何であれ、それは得意なもので無ければならない。そうでなければ、周りに叩きのめされる事になる。そして、叩きのめされたからといって、誰かが助けてくれるわけでもない。社会とはつまりそういう環境なのである。

 

 学生達は皆、得意だろうが苦手だろうが関係なく、どんな授業も受けさせられる。本当は得意な事だけやっていられれば良いのだが、まんべんなく授業を受けなければならない。それが出来なければ怠慢だと見なされる。

 しかも教師の中には、苦手な科目ほど努力して克服しろ、などと言い出す馬鹿がいる。本当に馬鹿だ。こういう教師は一度海に素潜りしてサメにでも襲われれば良いと思う。そうして、自分の苦手な分野で時間を掛けて努力することがどれだけ困難で無意味なことであるか、身をもって実感すれば良い。

 

 苦手な分野で時間を掛けて努力をし、苦手を克服できたとしても、大抵は普通になるだけで終わる。しかし、得意な分野で時間を掛けて努力をすれば超人に至る可能性がある。どちらにウエイトを置くべきかは明白である。

 

 現代社会は様々な問題を抱えている。我々の目の見えない所でも凄まじい競争が繰り広げられており、日々弱者達が強者達の食い物にされているのが現状である。

 国の借金は膨れあがり、国民達に税金を課してなんとか食いつないでいられるのもそう長くは無いだろう。

 少子高齢化に拍車が掛り、ますます若年層は負担を強いられる世の中にある。将来は年金すら貰えなくなるのではと不安視する声が聞こえてくる。

 コンピュータや人工知能の開発が進めば、多くの人間が職を失うことになると囁かれている。職を失うという事、それはお金が手に入らないという事に他ならない。

 

 そんな社会で、苦手を克服して「普通」になったくらいで生き残れると思っているのなら、それは相当に危険な考えかもしれない。

 

 

■成功者は皆得意な事をやっている

 

 プロのサッカー選手はサッカーが得意である事は言うまでも無い。漫画家に、絵を描くことが得意かどうか聞く必要など無い。音楽家に音楽が得意かどうか聞く必要など無い。

 皆得意だからその道を究めてプロになったのである。逆に絵を描くのが苦手な漫画家がいたら、それはそれで困りものだろう。音楽が苦手な音楽家が奏でる音楽は、やはり素人のそれにしか聞こえないだろう。

 

 世の中の成功者は、皆得意な事をやって成功している。その理由は、得意な事をやった方が成功しやすいからだというのは言うまでも無い。

 苦手を克服して成功を収めることも不可能では無いが、おそらくかなり面倒な仕事になる。時間も掛るし、精神的にもきつい。

 

 だが得意な事であれば、やっているだけで喜びや楽しみを感じる事が出来るし、それ故に上達も早い。従って成功までの道のりを進むスピードが格段に違う。短い人生、苦手な事に時間を掛けて克服するより、得意な事を伸ばした方がずっと効率的である。

 

 

■プラスの事を受け入れ、マイナスの事は無視する

 

 得意な事を伸ばす上で、少し厄介な事がある。それは、欠点やあらを探して色々と批判をしてくる人間がいることである。

 

 単に文句を言いたいだけの相手は無視すればいいが、中には的確な指摘をしてくる人間もおり、一概に無視するというわけにはいかない。

 得意を伸ばす上で「ああした方が良い」「こうした方が良い」というアドバイスをしてくる人間がいる。ただ、その意見には注意した方が良い。

 

 どんな人間でもそうだが、自分にとってメリットの無い行動をする人間はいない。従って、アドバイスをしてくる人間も、貴方のことを思って言ってくれているのかもしれないが、結果的に自分自身が何らかのメリットを感じるからアドバイスしてくるのである。

 それは誰かを正しい方向に導くことに喜びを感じる、というメリットかもしれない。あるいは、間違ったアドバイスをさも正しいアドバイスであるかのように見せかけて、貴方を蹴落として自分が上に這い上がるためのワナを張っているのかもしれない。

 

 いずれにしても、他人からのアドバイスは、その指摘が正しいものであるかどうかを慎重に見極めた上で受け入れなければならない。

 だが、その判断はそう難しいものでは無いだろう。得意な分野であればあるほどに。そのアドバイスを少し試してみて、駄目ならすぐに舵を切り替えれば良いだけだ。得意であるが故に、アドバイスを試した結果が良いか悪いかの判断は、比較的簡単にできるはずだ。

 これが苦手な分野だとそうはいかない。苦手な分野は共通して知見が限りなく少ない場合が多い。従って、何が良いか悪いかも分からずがむしゃらになって失敗する可能性が高いからだ。

 

 意外と面倒なのが、欠点だけを指摘してくる人間である。

 「ここがダメだ」とか言って「お前には才能が無い」とけなし「さっさとやめろ」などという言葉の暴力を振りかざす。

 

 言うまでも無いが、こういう輩は無視するのが一番良い。関わらないという事だ。彼らは誰かに文句を言うことで自己満足に浸っているだけなので、文句を言った時点で彼らの目的は既に達成されている。

 

 こうした文句を言われて貴方が憔悴したとしても、彼らが得るものは何も無い。従って貴方が憔悴することに意味は無い。

 「さっさとやめろ」と言われても続ければ良い。「才能が無い」とけなされても努力でカバーすればいいだけのことだ。「努力だけじゃダメだ」と言われても、ダメかどうかはやってみなければ分からない。

 

 現金な言い方だが、自分に取って都合の良いことは受け入れ、都合の悪いことは無視して生きるのが最も賢い生き方と言える。

 

 どんな行動にも必ず批判と賛同が付きまとう。

 何らかのアクションを起こせば、それを好意的に見る人間と、否定的に見る人間が現れる。どちらか一方しかいない、と言う事はあり得ない。必ず両方の人間が存在する。

 否定的に見る人間を好意的に変えるのは難しい。むしろ無駄な事だと思って諦めた方が良い。変えるのも不可能では無いが、相当に面倒な事になる。

 

 であれば、我々がすべき事は、否定的に見る人間や意見は徹底的に無視し、好意的に見る人間を味方に付けることである。苦手を克服することに拘らず、得意を伸ばすことと同様と言える。

「人」や「モノ」を排除することの重要性

  • 2018.02.11 Sunday
  • 09:30

■片付けられない人

 

 年末に大掃除をするのはもはや日本の伝統と化している。年末になると決まって大掃除をする。普段あまり掃除をしない人でも年末の大掃除になると、年末くらいは、と重い腰を上げて掃除に勤しむ人もいる。

 

 当たり前の話しだが、普段から5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)に気を遣っている人は、年末だからといって特に慌てることもなく、普段通りかもしくはそこに+αを加えた程度の掃除でも事足りてしまう事だろう。年末の大掃除の時だけ別段やる事が沢山あるのは、普段から整理整頓清掃に気を配っていないツケが回ってきている結果とも言える。

 

 この「片付けられない人」は実に沢山いる。むしろ、自分はいつも部屋を綺麗に片付けている、と胸を張って言える人の方が少数派ではないだろうか。

 なぜこうも「片付けられない人」が多いのか。理由は実にシンプルである。それは「別にものがなくなっても良いから」である。

 

 普段部屋を片付けない人でも、それでもそれなりにきちんと片付けて管理しているものが誰しもあるのでは無いだろうか。

 

 お金である。

 

 何気なく脱いだ服を椅子に引っかけたままにしていたり、小腹が空いて食べたお菓子の袋を机の上にぽんと置いたままにしたり、という人はいるかもしれないが、お金を適当に放ったらかしにしている人はあまりいないのではないだろうか。

 言うまでもなく、お金が大事なもの、なくなっては困るものだからであろう。

 

 なくなったら困るので、分かりやすい所にしまっておく。綺麗に片付けておく。いざ使うときに困らないように。例え部屋が乱雑になっている人でも、自分の大事なものだけはそれなりに分かりやすい場所にしっかりしまっていたりするのではないだろうか。

 

 逆に言えば、その「大事なもの」からあぶれて、乱雑に散らかったモノはあまり重要なものではないという事になる。もしかしたらただのゴミ同然のモノかもしれない。あるいは仮になくなったとしても、また新しいモノを買えば良い、代用が利くモノかもしれない。

 

 いずれにしても、対して重要じゃないから片付ける手間が勿体ない。そんな事に時間を費やすくらいなら、もっと楽しい事をしていたい。だから片付けるという行動に対する優先度が下がる。

 部屋が片付かない人の、多くの思考パターンがこうではないかと思う。

 

 

■捨てないのは居場所を大事にしていない

 

 5Sの基本は2S(整理・整頓)から始まる。

 整理は「捨てること」であり、整頓は「どこに何があるかを明確にすること」である。整頓をするにはまず整理―つまりモノを排除しなければならない。不要なモノを排除しない状態では、どこに何があるかを明確にすることも困難だ。

 どこに何があるか明確で無い状態で清掃する事も難しいし、清掃しなければ清潔に保つことすら出来ない。

 

 従って全てのことは「捨てること」から始まる。だが、この「捨てる(排除する)」という事が出来ない人が実に多い。

 

 不要なものであれば捨てればいいでは無いか?と周囲は簡単に言う。だが、本人にとってはそれ程簡単なことではない。もしかしたらまだ使えるかもしれない、使うときが来るかもしれない。あるいは、殆ど使い道はなくても、思い出の品などはずっと残しておきたい、と思ったりもするだろう。

 何を捨てるか、何を残すか、の判断は周囲が思っているほど簡単なことではない。

 

 だが、いつか使うかもしれないと思って残しておいたモノを、一年、二年と使わずにずっと放置して、捨てるのは勿体ないからと、部屋の片隅や棚の中に保管しておくのは実に勿体ない。

 何が勿体ないか。それは「場所」が勿体ないのである。

 

 必要ないモノは本来保管する価値すらないはずである。そんなモノに保管する場所や人間が生活する場所を奪われているのだから、勿体ないことこの上ない。

 そう、こう言う人はモノを大事にしているつもりかもしれないが、「場所」を大事にしていない。だから、無意味なモノを置いておいても大して問題だと感じない。

 

 

■人間関係でも大事でない人から捨てていく

 

 これはモノに限った話しではない。人間関係においても同じ事が言える。

 

 自分に取って大事な相手とは親密に付き合い、そうでもない相手とは適当な付き合いで済ませてしまう。これは実に合理的である。

 別に人間関係は、誰とでも仲良くしなければならないというルールがあるわけでも無い。身も蓋もない話しだが、人間関係など壊れても良いのだ。少なくとも、自分に悪影響のある相手とは距離を置いて、付き合わないようにするのが得策である。

 

 そんな相手と関わっていたら、自分の貴重な時間を奪われてしまうことになるし、精神的にもダメージを受ける事になりかねない。そんな被害を受けるくらいなら、いっその事そんな相手との人間関係は壊してしまうのも一手だ。

 人間関係は築くのは時間が掛るが、断ち切るのは一瞬で良い。ただ、その一瞬が踏み切れない人が多い。しかし、不要なものは排除しなければならない。これは絶対だ。

 

 職場の環境を乱す人間がいたら、やはりその人間は排除しなければならない。社会のルールに従わない人間がいたら、やはりその人間は排除しなければならない。犯罪者は社会から抹殺し、刑務所という場所に隔離する。これも排除だ。言わば彼らは、その環境において危険な存在だからだ。

 身体に病原菌が侵入してきたら、排除しなければならない。人間の身体の中では毎日がん細胞が生まれては消滅しているという。これはがん細胞を排除するという人間の免疫だ。花粉が侵入してきたら人間はくしゃみをする。これもまた花粉という異物を排除するための免疫だ。

 

 不要なものを排除するというのは、特別なことではなく、誰もが当たり前にやっている事だし、やらなければならない事でもある。

 従って、組織を管理する立場の人間は、周りから恨まれようが蔑まれようが冷酷だと言われようが、組織にとって不要な人間は排除しなければならない。それが出来ない管理者は無能と言わざるを得ない。

 病原菌に冒された身体は、病原菌を排除しなければやがて病原菌に食い尽くされ、死んでしまうだろう。身体の一部が壊死したならば、やはりその部分は切断したり除去しなければならない。壊死した部分が大事だから切り落とさないで、というのはちっとも身体を大事にしていない。やがて壊死した部分から身体全体が蝕まれていく。

 

 「人」や「モノ」を排除できないという事。それは、自分自身の身体や環境を大事にしていないと言う事に他ならない。

 

数学が一番重要だという話

  • 2018.02.03 Saturday
  • 14:10

 自分がまだ学生の頃、五教科の中で何が一番重要か、という話題について同級生と話をしたことがある。五教科というのは「国語」「数学」「理科」「社会」「英語」の事である。

 これら五教科の中でどれが重要かは、人それぞれ違うだろう。分かりやすいのは受験科目だ。理工系の大学では、数学や理科と言った理数系の科目が重要視され、歴史や倫理といった社会科は殆ど無視される。文系ならばその逆だろう。また、英語は文系理系問わず、ある程度まんべんなく要求されることが多い。

 しかしそれは試験という限られた世界に絞った場合の話しだ。我々が日常生活を送る上で、これらの五教科がどのように役立っているのか。それを考えた場合にどれがもっと重要かを考えてみたい。

 

 

■勉強する意味

 ところで私達は何のために勉強するのだろうか。

 学生達にこう問うと、ある人は「将来のため」と答え、またある人は「志望校に合格するため」と答え、またある人は「何となくやってる」と答え、またある人は「やりたくないけどやらされている」と答える。どれも間違った答えではない。正しい答えだ。

 

 ではこれらの五教科を勉強した結果、我々は一体何をどれだけ会得したのだろうか。学校を卒業し、大人になってから改めて自分自身を振り返ってみると、その殆どが水疱と化していることに気付かされる。要するに、当時あれだけ勉強したにも関わらず、具体的に会得できているものが殆ど思い浮かばないのだ。

 当時学んだことを綺麗さっぱり忘れてしまっている、と言うわけではない。こんな事を勉強した、こんな事を覚えた、という断片的な記憶は存在する。しかし、現実社会や日常生活においては、そのめまぐるしいほど忙しい日常を生きる事に精一杯で、かつて学んだ知識を生かせるだけの余裕がない。結果的に、当時学んだことの殆どは「無駄な事」と化している。

 

 もっとも私自身、学生時代から学校の勉強が将来の役に立つ、等とは正直な所思っていなかった。とりわけ、自分が苦手意識を持っている、歴史や古文など文系の科目に至っては然り。本当はやりたくないだけなのだが、こんな事勉強したところで何の役にも立たない、と言い訳をしてあまり本気で取り組まなかった記憶がある。

 現代に生きる我々にとって、おそらく日常会話で古文を使うことなど皆無に等しい。学んだところで意味は無い。歴史にしても、過去起きたことを今更振り返ったところで一体どうなるというのか?過去は変えられない、変えられるのは未来だけだ。従って過去を振り返ることがそれ程重要だとは思えない。

 だがその一方で、自分の好きな数学や物理学に至っては、その歴史に大変興味があった。一体どのようにして物理学者や数学者達がこれらの法則を発見していったのか。そして、そこにどんな苦難があったのか。現在の我々の日常生活や科学技術を支えている方程式が、どのように導き出されたのか、その過程を知るのが楽しかった。

 全く現金なものである。要するに好きな事には夢中になれるのだが、嫌いなことには夢中になれない。嫌いなことは、どうでも良いことだと決めつけて本気を出さない。結果的に、好きな物理や数学の世界に没頭し、苦手な文系の科目は試験をパスするためにそこそこの勉強をして、理工系の道へと進んだわけだ。

 

 だが、その一方で、数学や物理を好きになって良かったと、今では心からそう思っている。なぜなら、受験とか試験とか、好きとか嫌いとかを抜きにしても、今日常生活を送る上で最も重要な科目が「数学」だと確信しているからだ。

 昔から、何となく「数学」が重要だという漠然とした思いはあった。だが、それはきっと自分が数学が好きだからそう思い込んでいるだけなのだと思っていた。しかし、大人になって、会社で働くようになって、あらためて痛感する。

 五教科の中で最も重要なのは「数学」なのだと。

 

 

■数学は世界共通言語

 数学が最も重要だと思った最初のきっかけとなったのは、私が学生時代、物理学の論文を読んでいた(読まされていた)時の事である。日本語の論文であれば特に問題なく読めるのだが、英語やドイツ語などで書かれた論文となると、途端に私の中で「アレルギー反応」が引き起こされる。

 「英文アレルギー」という名前を勝手に付けていた。要するに英語を読みたくないのだ。古文や歴史が嫌いなことは前述したが、英語も正直言ってあまり好きではなかった。だから、英語の論文を読む作業は苦痛以外の何物でもなかった。

 

 しかし、そんな英語の論文でも、唯一オアシスのような場所があった。

 それが数式と図形が書かれている場所だ。

 周りに書かれている英語の本文は意味が分からなくても、数式や図形は、見れば何となく分かるのだ。考えてみれば当然である。どんな言語で書かれている論文でも、数式だけは変わらない。数字にはアラビア数字が使われ、記号はアルファベットやギリシャ文字が多用される。数学記号も共通だ。

 

 その時に気付いたのだ。数学は唯一の世界共通の言語だと。

 国語はその国の言葉を学ぶし、英語は英語を学ぶ。当たり前だ。だから、国語は基本的にその国の中だけでしか通用しない。英語は英語を使う文化圏でしか通用しない。

 社会科にしてもそうだ。基本的に社会とは自分たちの国の社会を学ぶ。歴史にしても経済にしてもそうだ。世界史や世界経済などは、世界中の様々な国の事を学ぶことは出来るかもしれないが、所詮は机上で身につけた知識に過ぎない。学んだだけでそれらを実際に役立てることなど皆無に等しいだろう。本当に他国の事を学びたければ、実際にその国に行ってみなければ分かるまい。

 しかし数学は違う。数学は日本で学ぼうが他の国で学ぼうが、その内容は同じだ。ピタゴラスの定理一つ取り出してみても、日本語で説明した文章は外国人に通用しないかもしれないが、直角三角形の図形を書いて、それぞれの辺にABCの記号を付けて、A^2+B^2=C^2とでも書いてあれば、どんな相手でも通用する。

 

 ここに数学の強みがある。

 多くの人は自覚していないかもしれないが、数学は言語であると言える。日本語や英語が、ひらがなや漢字、アルファベットを文法という法則に従って書き並べられているのと同じように。

数学は数字や記号を使い、それらをある一定の法則に沿って書き並べて相手に物事を伝える手段である。そういう意味で、日本語や英語と同じような言語なのである。しかもそれは、世界共通でありどんな相手にも通用するのだ。

 

 

■論理的に考える力

 数学が最も重要だと思っているもう一つの理由として「考える力」を身につける事が出来る、という点がある。これは特に社会人になってから実感したことである。

 

 そもそも数学とは何だろうか?

 この問いに対する答えには、様々な答えを用意することが出来るが、私自身は「複雑な物事に論理性を持たせること」と答えたい。

 そして、学生の頃はこの事に気付いていなかった。おそらく大半の学生は私と同じように気付いていないに違いない。なぜなら学生の頃に学ぶ数学では、公式や法則を使って複雑な問題を解く力が要求されるからだ。

 

 公式や法則を覚え、それらを使い、現実生活では到底あり得ないような複雑怪奇な問題を出される。そして、それらに公式や法則を当てはめさせて問題を解かせるのだ。しかも、ただ問題を解かせるだけにとどまらず、受験数学では受験生があえて間違えるように、様々なワナが張り巡らされている。大学入試センター試験では選択式の問題が出されるが、その選択肢には、間違えやすいミスをしたときに導き出される答えがあえて選択肢の中に含まれている。受験生はミスに気づけず、間違った選択肢を選んでしまい、問題発案者はシメシメと思うわけだ。

 こうしたひねくれた問題を解くには、真っ向正面から挑んでいったのでは太刀打ちできない。どこにどんな地雷が潜んでいるかを慎重に見極めながら、時に回り道し、どのような意図でこの問題が出されたのかを考えつつ、それらを限られた時間の中で解かなければならない。まさに至難の業である。

 そして、こうした複雑でひねくれた問題の前に、多くの学生達は叩きのめされ、数学が嫌いになっていくのだ。かくいう私も、数学は好きだったが、こうしたひねくれた問題や試験は大嫌いだった。

 

 しかし、数学の本質は公式や法則を使って複雑な問題を解くことではない。このような複雑な問題は、あくまで、公式や法則を学生達に理解させるために行われる「練習」のようなものだ。そして、その「練習」が理不尽に厳しすぎるので、学生達が嫌になっているだけなのである。

 それは数学がどのようにして生まれたのか、という事について紐解いてみれば分かる。

 例えば、100個あるリンゴの数を数えるという作業一つ取っても、単純に1、2、3…という風に1個ずつ数を足して数えるよりも、10個ずつ10列に並べた方が間違いは少ないし数えやすい。つまり1+1+1+・・・等という足し算を100回繰り返すのではなく、10個が10列だから、10×10=100とした方が断然スマートである。こうしてかけ算が生まれた。

 土地の大きさを測るにしても、かけ算が分かった今、四角形の土地なら広さは掴みやすい。しかし三角形ならどうするか?三角形を細かい四角形に分割してそれぞれの広さを求めて最後に足し合わせる、という事をやってもいいが、それでは面倒だしどんなに細かく分割しても絶対に半端な部分が出来てしまう。ならば、三角形を二つ用意してそれらをくっつければ四角形になるから、四角形の広さを計算して最後に2で割った方がスマートである。こうして三角形の公式が生まれた。

 

 こうした一見複雑で面倒な物事に、規則性や法則を見出して簡単に、誰にでも分かるような形に確立されたのが数学である。従って、数学の本質とは「法則を使って問題を解く」事ではなく「法則を見つけ出す」事にある。

 しかし、殆どの学生がそれに気付くことが出来ない。なぜなら、学校の数学では法則を見つけ出すことをせず、既に見つけ出された法則を使う事が常だからである。そして、この「学校数学」に慣れてしまうと、既に存在している規則に則って作業することが当たり前になってしまい、最悪の場合自ら考える事を止めてしまう。

 これは大変危険なことである。

 

 

■複雑な現代社会、生きていく為に考える事をやめてはならない

 現代社会は人間関係にしても、会社の仕組みにしても、実に複雑化している。正直者が馬鹿見るとまで言われ、嘘が真実として信じられることもあれば、真実が嘘と言われてしまうことさえある。

 

 ある企業ではサービス残業が当たり前になり、サラリーマンは個性を奪われ、さながら歯車の如く会社の中で酷使されることになる。そして、壊れた歯車はあっけなく別の歯車に交換され、廃棄されるのだ。「社畜」などという言葉さえ生まれる始末なのである。

 そんな社会の中で我々が生きていく為には、既に決められたルールや発見された法則だけに縋っているだけでは生き残れない。当たり前だが、サービス残業は労働基準法に反する行為だが、おそらく殆どの人がその「法則」すら使いこなせていない。

 

 仮に「法律違反です」等と言って会社に刃向かおうものなら、手痛いしっぺ返しが待っていることだろう。最悪の場合職を失うことになる。

 結局の所、そんな会社は辞めてしまえ、などと言い、本当は悪くない自分がその会社から去って行くことになるのだ。

 既に存在している法則を使っても太刀打ちできないのであれば、何が自分に取って良い結果を生み出すのか、を考えて、自分なりの「人生の法則」を見つけなければならない。そして、新たに見つけ出した法則に従って行動し、もしその法則に間違いがあると分かれば修正して、また新たな法則として確立していかなければならない。

 

 決められたルールや法則だけで生きていると言う事は、それだけ可能性を狭めてしまう。自ら考える努力を放棄し、他人に指示されるままに生きていく。会社に指定された時間に仕事を始め、良いと言われるまで仕事をやらされる。その結果、身体を痛めようが、心が抉られようが会社は助けてくれない。その会社に取ってはそれが「法則」だからだ。

 ゆえに「社畜」になるのである。家畜の動物は人間達に飼い慣らされ、餌を与え続けられたが故に、本来自然界で狩りをして生き残るという技を失っている。おそらくそのまま自然界に放り出されれば、まともに生きていくことなど出来まい。

 「社畜」も同様だ。「社畜」とは、単に企業に奴隷のようにこき使われている存在では無い。その企業なしでは生きていくことが出来なくなった人達のことを言うのだ。彼らは自ら考えて行動することが出来なくなっている。だからこそ、その会社に依存する事でしか生きていけないのだ。

 

 そして、考えられない人間は、そこから抜け出すことも出来ない。その「法則」が間違っていると気付いても、指摘することが出来ない。指摘して、万が一職を失えば、その先どうやって生きていけば良いか、分からなくなるからだ。

 

 その一方で「会社が悪い」「上司が悪い」と言って相手の所為にしてばかりいる人もいる。何もこうした会社から逃げるばかりが選択肢ではない。会社の「法則」が間違っているのなら、その「法則」を変える事もまた方法の一つだ。

 こんな事を言うと「そんな事一社員に出来るわけがない!」と反論する人が必ずいるのだが、ならば逆に聞きたい。「そもそも変えようとしたことがあるのか?」と。変えようとしたことすら無いのに可能性を最初から否定して、出来るわけがないと決めつけているのなら、それは根拠のない思い込みに過ぎない。

 会社に刃向かえば、確かに高確率で自分の立場が危うくなるのは想像出来る。しかし、不可能だと決めつける根拠はどこにあるのだろうか?どうせ否定されるに決まっている、と分からない先の未来を決めつけていないか。つまり、根拠を考える事が出来ていない。

 

 過去に変えようとして失敗していたとするなら、なぜ「あの時失敗したのか」原因を考え対策を導き出す必要がある。その結果、変える事は不可能だという結論に達したのであれば、グズグズせずさっさとその会社から足を洗った方が良いだろう。また、何とかして変える事は可能だが、この点でまずかったから変えられなかった、という具体的な原因が分かっているのなら、次はどのような方法があるかを考え、リトライすることも方法の一つだ。

 

 少し話しが逸れているように感じるかもしれないが、こうした考える力は数学的な思考能力(論理的思考)によって身につける事が出来る。逆に言えば数学が出来ない人は考える事も出来ない、といっても過言では無い。

 

 世の中は数字じゃ割り切れない、と言い出す人もいるが、そんな事は既成の事実である。そもそも1を3で割れば割り切れないことくらい小学生でも知っている。二次方程式や微分方程式にはそもそも答えが存在しない事もある。

 数学はそれすらも受け入れる。つまり割り切れないことを割り切ろうとしても最初からや無駄だから諦めるか、1/3と分数で表現する等の別の方法を考えるという結論に達するわけだ。答えがない問題に幾ら頭を悩ませても時間の無駄だから「解はない」という結論を導き出し、それ以上その問題を議論しないようにするわけだ。

 

 数学が出来ないと、それすら気づけない。気づけないから出来ない事や無茶な事に挑んで時間や金を、最悪の場合命をも無駄にする。逆に出来る事なのに出来ない事だと思い込んでチャンスを無駄にする場合もある。

 あらゆる物事が複雑化する現在、我々が生き残る為には論理的に物事を考える力―即ち数学的な思考能力が必要不可欠である。

 

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